【「租庸脅調」という中国の税制】
大宝元年(七○一)に律令体制が敷かれると、「租庸脅調」という中国の税制にならって、徴収されるようになった。「租」は支給された班田に課せられる税で、地方の財源としてたくわえられ、それに対して、繊維製品や海・山の収穫物など郷土の産物を納めさせる「調」と、労役もしくは布を対象とする「庸」は、中央の財政を支えるために集められた。しかし、人々のすべてが要求通りの品物を納められるとは限らず、実物に代わる物品や労働で支払う「代納」も少なくなかった。こうした代納には、中央にそのまま代物や代役を送る場合と、実物に代えてから納める場合とがあった。実物に代えるには、各地の国府近くで開かれた「国府市」で交易する方法があった。一方、各地から税として集められた品々は、中央の官司や官人に現物支給されたが、それらがかならずしも彼らのニーズを満たしていたわけではなかった。したがって、彼らもまた、交易する必要があったのである。そうした事情もあって、平城京などにはかならず市が設けられていた。このように、古代においては、その税制が流通経済を発展させる契機にもなった。しかし、実際に税を納める人々はといえば、流通経済発展の恩恵にはなかなかあずかれなかったようである。